梅原猛氏が亡くなり、新聞やテレビが氏の人柄や功績を称えましたが、私にも強烈な思い出が三つあります。
約40年前、総合誌で、作曲家の黛敏郎氏との対談を企画しました。梅原氏は、京都の和辻哲郎氏(哲学者)の旧邸を購入して住んでいましたが、その由緒ある家で1時間毎に休憩を入れながら約5時間、日本の古代史を語り合ってもらったのです。
数日前に降った雪が庭の木々に残っており、それがときどきばさっと池に落ちるのです。それが旧和辻邸というたたずまいと二人の熱っぽい対話に彩りを添えていました。黛氏は前半こそ頑張っていましたが、後半になると梅原氏のユニークな視点からの分析が増えていきました。
二つ目は、前にいた会社でのノンフィクション賞選考会のときです。選考委員の一人である学者が、自身を論壇に出してくれた元編集者の作品を強く推薦し、それに決まりそうな雰囲気になりました。
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そのとき梅原氏が、もう我慢出来ないといったふうに口を開き「この作品には新発見や挑戦がない。単なる通説を器用にまとめたに過ぎない」と、後輩の学者を叱りつけるような勢いで反対したのです。
私は学者の熱弁に明らかな身贔屓を感じていたため、思わず拍手しそうになりました。梅原氏は「この社のノンフィクション賞には少々荒っぽくても骨太でタブーに挑戦するものがふさわしい」と結び、選考会の空気は一気に変わりました。
三つ目は、やや焦りを感じていた40代から50代への過渡期に梅原氏の次のような意味の一文に接したときです。
「40〜50代の頃、同僚や後輩が発表する論文などに焦りを感じていたが、よく読むと独創性はなく横文字を縦にしたものや通俗的解釈に甘んじているものが殆どだった。それに気付いてから、じっくり構えることが出来、60代になってから自信のあるものが書けるようになった」
将来への不安や焦りが、感銘と共に消え去りました。

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今年の年賀状の中に「いよいよ年賀状じまいをさせていただきます」が2通ありました。同世代ですから80歳を超えています。私もひと言書き加えるのが億劫になってきました。
しかし小中高の同級生のものは故郷の少年時代を鮮明に思い出させてくれます。また中高時代に思いを募らせた初恋といってもよい相手からのものは「青春」を蘇らせてくれます。
『万葉集』をはじめとする歌集や詩集から、翌年の年賀状に書く「春」を呼ぶ詩歌を、1年かけて探すのが私の楽しみのひとつで、今年は次の一首でした。
霞立つ野の上の方に行きしかば 鴬鳴きつ春になるらし
編集主幹 伊藤寿男
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