八月や六日九日十五日
この俳句に、79年前の夏を特別な感懐をもって思い出す人もめっきり減ってきました。私は国民学校5年、11歳でした。
新聞に、東京・目黒の小学校の奉安庫から昭和天皇の写真などが出てきたと、ちょっと驚いたというニュアンスの記事が載りました。終戦まで国民学校には天皇陛下の写真を掲げた奉安殿があり、私たちは登校すると必ず深く一礼し、それから教室に向かったものです。
戦前、奉安殿の火事で天皇陛下の写真が焼けたとき、校長が責任を取って自殺したという話も伝わっていました。当時の国民には神格化された場所でしたが、戦後はすぐ壊されました。
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8月に入ってメディアには戦争にまつわる報道が氾濫しました。しかし体験者の減少もあり一過性なのが残念です。いまウクライナやガザ地区では激しい戦争と殺戮が続いています。そんななかで広島と長崎に原爆が投下された日と終戦の日を迎えたことに、あの夏が蘇りました。
広島に投下された原爆の惨状の一部は静岡県の田舎町にも伝わってきました。「新型爆弾で市民の大半がやられた。しかし白いシャツを着ていれば大丈夫だ」という風説もその一つです。
大学で親しくなった広島近郊出身の友人は「俺の体験は女房にも子どもにも喋らず死ぬつもりだ」と語っていました。こんな「沈黙の記録」を含め、私たちは戦場や銃後の記録を残していかなければなりません。
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能登半島地震とパリ五輪で、SNSによる嘘・偽情報と誹謗中傷投稿が改めて問題になってきました。被害者を装って閲覧数を稼ごうとしたり、選手や審判の言動を口汚く批判する投稿が氾濫したのです。
自分の怒り・不満・恨みなどを広く拡散させようと思っても、スマホが発達普及するまでは、メディアを経由させるしか方法はありませんでした。67年前、講談社の総合誌『日本』に配属されました。編集一年生の仕事の中には読者からの手紙や投稿の整理があります。
一か月に数通の内部告発と情報提供がありましたが、昔の探偵小説のように新聞や雑誌の活字を一字ずつ切って貼ったものです。発信者の特定に繋がる筆跡を隠すためです。そんな配慮がFAXやパソコンの出現で不要になりました。それでもメディアという仲介が必要でした。
それがいまやスマホによるSNSなどで、個人が得た情報や意見を、メディアを経由することなく直接、社会に向けて発信できるようになったのです。折しも「南海トラフ巨大地震注意」が発表され、早くも偽・誤情報が飛び交っています。総務省はメタやXなど4社に適切な対応を要請しましたが、要は私たちの心構えです。
編集主幹 伊藤寿男
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